ビジネス書 自己啓発本 「本当に役立つ本」 紹介 !

年間100冊以上好きで読んでいますので、アウトプットしようと決意。できるだけ質のいい、活かせる情報を。

「父からのキャンペンガールと手紙」

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「何のために高い学費払ってまで大学行かせたと思ってるんだ!!」

そう父に激怒されたときは、既に想定内だったのでそんなにうろたえませんでした。でもその横で涙目になって、私をみている母の顔を見たときは、さすがに心の奥にあった小さな罪悪感が何倍もの大きさに膨れ上がった気がしたのを覚えています。

 

私は高校2年生の冬から一生懸命勉強しました。部活も止めて、少しでも親が喜ぶ大学に入ろうと、受験勉強を頑張りました。行きたい大学は3つほど決まっていましたが、入りたい学部、学びたい学問もなく、ただ理系クラスにいるという理由で、工学部や理工学部を受験しました。

 

行きたかった大学の工学部に入ることができ、親は喜んでくれました。後から聞いたのですが、私が受かったということを父は仕事中に母からの電話で聞き、そのときにガッツポーズをしたらしいです。もちろん当時は携帯電話は普及していなかったので、父が公衆電話か、会社から母に電話してくれたんだと思います。営業で地方を飛び回されていた父を捕まえるのは至難の業だったと思うので、母が父に電話したということは考えにくいからです。父が私の行動や何かで「ガッツポーズ」をしたのは、恐らくこれが最初で最後だったのではないでしょうか。

 

父は典型的な関白オヤジで、よく週末は酔っぱらって帰ってきていました。玄関の靴がちゃんと並んでいないという理由で、真夜中にたたき起こされることも何度かありました。私が頼りない性格なこともあり、父はしっかりした大人になるために”しつけ”を頑張ってくれていたんだと”今は”思います。社会に出て恥をかかないように、という思いが強かったんだと思います。

 

大学を出て、電気メーカに就職しました。就職先もどこでも良かったのです。普通の大学生?のように試験前だけ丸暗記の鬼になり、普通に単位を取り、普通に卒業。
3回生のときに成績順に就職先をリストから選ぶ という理系の特権みたいな面談が教授とありました。その面談の前に、父を喜ばそうと、当時出たばかりのPHSで父の会社に電話をして聞いていました。「企業リストには○○とか××とかの企業が残ってるけど、父さんはどこがいいと思う?」と。そこそこ名の知れた会社が残っていたので、父が勤務する会社の中で、父の鼻がちょっとは高くなるかな、と思ったからです。自慢の子??かどうかはわかりませんが、そこそこ(ほんとにちょっとだけ)有名な企業を俺の子は選べるねんぞ、と会社で自慢したいタイプだということくらい、私は父のことを知っていたからです。今思えば何でそんなことまで聞いたか、本当にバカだなと思います。自分の人生なのに。

 

父の選んだ会社に就職しました。それがその電気メーカでした。案の定、自分で調べたり、働きたかったり、興味があったわけでもないので、仕事に興味がもてませんでした。でも同じ寮の同期や先輩とは本当に楽しい思い出しかない2年間でした。今は全く連絡をとっていませんが、LINEには数人「友達」にだけ入っています。

 

まる2年経った頃に退職してしまいました。会社の寮から実家へ帰りました。昔から何となく興味があったコンピューターグラフィックを学びたいという理由があり、本屋さんでブラブラしているときに、たまたまそういうパソコンの雑誌が目に入り、昔思い描いていた夢というか憧れを思い出したのです。会社から寮に戻っては、グラフィックデザイナーになるために、そういった類の本をたくさん読んで、絵を描く練習をしたりしました。しかし、本格的に学びたくなって、専門学校に行こうと思い、勝手に会社を辞めました。

 

そして父に罵倒されたのです。あっ、1行目のところです。
本当に覚悟ができていたことと、小さいころからよく大声で怒られていたので、我慢できました。小さい頃はほっぺたを叩かれていましたが、さすがにその時は叩かれませんでした。私の方が父よりも10cmくらい大きくもなっていましたし。

ほとぼりが冷めて、専門学校へ実家から通う日々が続きました。1年通いました。2年間働いていたので、ぎりぎり働いて貯めたお金で通うことができました。その1年間は殆どパソコンの前かコンピューターグラフィック(CG)の本を読んでいました。1年経って、専門学校の授業が終わると、就職できるまで自習室と、そこにある高性能なパソコンが使えることになっていました。早く自立しようと必死でした。貯金もほぼなくなっていましたし、バイトすると就職活動のための作品が作れないし、とにかく必死でした。そういう業界は面接の前にパソコンで作成したイラストや動画を送る必要があったからです。私は美術大学出身でもないし、絵心もなかったので、パソコンで動画を作ることに専念しました。とにかく自立して親を安心させたい。プラス、実家から脱出したいという思い。その他いろんな気持ち、近所のおばちゃんからの視線を受けないところへ行きたい気持ち含む。

 

「で、お前はなんで そんな雑誌ばっかり読んでるんや?」

「えっ?!早く就職するために決まってるやん!」

そんな父との会話の頻度が高くなってきました。授業が終わってから3か月くらいたったとき、ようやく1社内定をもらいました。やっともう一度自立できる。嬉しさよりも安堵感の方が強かったのを記憶しています。

 

母にはすぐ言いましたが、まだ帰ってきていなかった父には、母から伝えてもらうことにして、その夜はすぐに寝ました。安心してどっと疲れたんだと思います。我ながらよく頑張った。その1年と3か月くらいの間で、普通の会社員の10年分はクリックしたと思います。

 

それから何日かが過ぎました。そして新しい職場へ行く何日か前の朝のことです。

8時頃 朝起きると、私の色あせたノートパソコンの上に雑誌のようなものが置いてありました。
キャンペンガール(CG)の写真が何十枚も載っているびっくりするくらいマニアックな雑誌が置いてありました。冗談かと思いましたが、そんな気の利いた冗談を思いつける父ではないことは、母の次か、その次くらいに知っていました。だから多分真剣に探したのだと思います。探してくれたのだと思います。会社の同僚や部下にも私が会社を辞めて専門学校に通っていることを隠していた父なので、多分自分で探して買ってきてくれたんだと思います。

 

笑いそうになりましたが、その後涙したのを覚えています。
そのマニアックなCG(キャンペーンガール)雑誌には、父からの手紙が一枚挟まれていました。手紙といっても、父が勤務する会社の名前が入った薄い薄い横向けの罫線が入った紙でした。

 

 

「〇〇君へ(私の名前)。 人生1度きり。楽しい方がいいよね。らしく生きよう。

                           らしく。父より」

 

それが、最初で最後の父からの手紙でした。

今でも持っています。

自立がしんどくなったとき、その手紙が私の自立を今でも助けてくれています。

そのCGの本は捨てました。

 

#わたしの自立

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