ビジネス書 自己啓発本 「本当に役立つ本」 紹介 !

年間100冊以上好きで読んでいますので、アウトプットしようと決意。できるだけ質のいい、活かせる情報を。

初めて地震の被災者になってわかったこと。

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今週のお題「2018年上半期」

2018年上半期の一大事件といえば、やっぱり大阪北部に突如起こった震度6弱地震。現在高槻市に住んでおり、6月18日月曜日の朝、7時58分ごろに起きた地震の被災者になりました。

 

今まで、記憶に新しい2011年3月11日の東北大震災や1995年1月17日に起きた阪神淡路大震災などをテレビのニュースや新聞で被災者の様子を見てきましたが、今回初めて自分が「被災地の人」になりました。

 

一言で言うと、本当に怖かった、その言葉につきます。当日私は出勤するために最寄り駅のホームで電車を待っていました。しかも乗ろうとしていたのが7時58分発の阪急梅田行き。いつものようにホームには電車が接近するアナウンスが流れ、いつものように電車が近づいてくる。そしていつものようにホームで電車に乗ろうと列をなしているビジネスマンやOL、学生やどこかへ出かけるためにリュックを背負った老夫婦。いろんな方が普通の日常的な恰好で、日常的なルーティーンで電車を待っていました。

 

そしてホームへいつもと変わらぬ様子で阪急電鉄の梅田行各駅電車が入ってきました。そして電車の扉が開いた瞬間でした。

非日常的な、普段みたことのないような光景が私の視界の中でおこりました。

 

信じられないくらい電車が東西の方向に振り子のように揺れました。

 

最初は足元から突き上げるような衝撃を感じ、その衝撃に驚いている最中(さなか)に電車がおもちゃのように、遊園地のアトラクションのようにレールを重心として揺れだしました。

 

お年寄りはしゃがみ込み、学生や会社へ向かおうとしていた社会人は茫然と立ち尽くし、次の瞬間には何が起こったのかを把握しようとまわりを見渡します。見渡しながらも「地震」という2文字を頭の中にようやく呼び出すことができ、呼び出したはいいものの、次の揺れがまたくるんじゃないか、という恐怖にかわってきました。平穏な通勤、電車の揺れ、理解できずに立ち尽くす、またいつ揺れだすかわからない恐怖へと、この間おそらく30秒もなかったと思います。

 

想定外の出来事が起こったときこそ、人の性格や個性は表出するとウォルト・ディズニーは言っていましたが、実にそれは真実であることがわかりました。

 

すぐに携帯で会社に遅刻するだろうと電話している人。自宅へ家族の安否を心配して電話する人、老夫婦に声をかけている主婦、興奮して何かを叫んでいる学生、すぐに改札口へ向かって駅から出ようとする人。

私もすぐさま揺れが収まりかけていた電車の前で携帯を取り出し、自宅へ電話をしようと思いました。が、すでに電話が混雑していてつながりませんでした。そんなときにLINEの無料通話が鳴り、慌てて画面をこすって通話へ。妻から一言「すぐに帰ってきて!」。結婚して10年以上、そんな短くて具体的な一言は初めてでしたが、私はすぐにわかったと答え、携帯を切って改札を出ました。

 

最寄り駅といっても自宅まで徒歩20分弱。いつもの1.5倍くらいのスピードでパソコンの入った重いカバンを振り回しながら自宅へ向かいました。途中そこらじゅうの植木鉢が倒れて破損し散らばっており、自転車やバイクはドミノ倒しのように転倒していました。とある中小企業の前を通りかかったときには、会社用の安物の黒いすり減った靴が何かをジャリっと踏みました。
粉々のガラス。
その中小企業のビルの3階のガラスが割れて落ちていたものだと、見上げてすぐにわかりました。そこから自宅まではなるべく道の真ん中を早歩きして行きました。

 

家のすぐ近くにきた頃には、顔見知りでは無い60代くらいのおばさんと、私の妻と子供二人が自宅横の駐車場でしゃがみこんでいました。妻はそのおばさんの話し相手をしていました、少しでもお互いの不安をやわらげようと必死になっていることがわかりました。上の子は小学校へ行かなくてもいいということで少しテンションが上がっていましたが、相当家が揺れたのでしょう、かなり顔は硬直。そらあんなに重量のある電車があそこまで揺れたんだから、細長い我が家の揺れは想像以上だったと思います。そして下の子はさっきまで泣いていたのがわかるほど目を真っ赤にしていました。

 

妻はリュックにとりあえずのお金とお茶を入れた水筒、そして次の日に食べる予定だった菓子パンを詰め込んで飛び出してきていました。

 

本震がきたら死ぬかもしれない、家の中にいたら確実に家が壊れて死ぬかもしれないという恐怖で、外の駐車場へ飛び出してきていました。私も家の中へ入るのが怖かったのですが、一家の主として家の中にある通帳や印鑑はとってきた方がいいと思い、覚悟を決めて自宅内へ土足で入っていきました。

 

家の中はゴリラか何か狂暴な動物が暴れたのか、若しくは米国などではよくあるハリケーンが家の中で発生したのかと思うくらい、ほとんどの家財道具が床に落ち、本棚や家具はいつもの定位置からずれ動いており、山のように割れたお皿やコップのカケラがそこら中に飛散していました。

 

幸い本震と呼べる類の大きな揺れはその後ありませんでしたが、震度2~3くらいの余震は数回ありました。そのたびに子供を抱きしめて守ろうとしました。外だから安心だと思いながらも、近くの古い家の瓦が飛んで来たら、バイクが目の前を通過するときに大きな揺れがきて転倒し、子供たちに襲い掛かったらどうしようなど、こういうときはいつもは全く考えもしないマイナス思考が次々と出てきました。

 

その次の日の夕方近くまでは水は出ませんでした。幸い高槻市の私の自宅はガスと電気無事でしたので、そこは本当に不幸中の幸いでした。

 

1時間ほど駐車場で様子をみてから9時ごろ、最寄りのコンビニに飲み物を買いに行きました。既に妻が短時間で用意した水筒のお茶はなくなり、水がでないことがわかっていたので水を買いに行くことにしました。

しかし、コンビニこそワインや焼酎などが割れて床はびちょびちょ。店員さんたちは必死に危険なガラスをはしっこへ集め、なんとか販売できるように頑張ってくれていました。お酒やワインの臭いが強烈に漂う中、水を探しましたが、既に売り切れていました。仕方なく売れ残っていた体脂肪にききそうなお茶とジュースと、普段ならまず買わないだろうシンプルなパンを買って帰りました。

 

その地震発生の日はずっと家族4人一緒に、一番安心と思われ2階の寝室で過ごしました。炊飯ジャーティファールも寝室に運び、そこで一通りの生活ができる用意をし、24時間以上過ごしました。

 

非常用の水、缶詰などの食べ物、お湯を沸かせるティファールなどのポット、子供が気を紛らわすことができるおもちゃ、家のなかで使える丈夫なスリッパか下靴、万が一のとき2階から1階へ子供を抱えて降りることができそうなロープ、懐中電灯とその電池、軍手、特に子供がいると必要になる濡れティッシュと普通のティッシュ、通帳や実印などの重要なもの。
そういった緊急時に必要なものリストアップし、家のどこかへ貼っておく、または携帯で撮影してお気に入りにしておくなど、今後すぐにやっておくことが必要だとわかりました。

 

そして何より、お子さんがおられる方は、まずは子供に「大丈夫、パパとママが絶対に守るからね」と笑顔で何度も言って安心させること。それが一番重要だということがわかりました。

今日もまだ床に飛散した大量の本を片付けようとしたのですが、本棚の仕切り板を支える部品が半分くらい折れていることがわかり、2000円くらいの本棚のもろさも知ることができました。

 

何より家族4人、全員が無事だったこと、そして家族の絆が深まったことが、被災して良かったことです。もちろんもっともっと大変なことになった方や、悲惨な目に合った方たくさんおられると思いますので、良かった という表現はよくありませんが。

被災してわかったこと、それは家族への思いやりとご近所さんとの普段からのこにゅにケーション、助け合いの心。食べ物などよりもまず、皆で皆の心をケアするということが大切だということがわかりました。

 

本当に大変でしたが貴重な経験でした。今後心配な地震の話もありますが、今回の経験を活かして、防災グッズを用意したり棚などを固定したり、高いところにはなるべく割れ物は置かないなど、実践していきたいと思いました。